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こみねもすなるだいありー

全然何にも怖くない

溺れるナイフ - 神様を得た15歳 -

gaga.ne.jp

せっかく楽しみにしていた映画なので、初日に見に行ってきた。


東京で芸能活動をしていた美しい15歳の「夏芽」が、家族と共に祖父のいる田舎へ引っ越し、そこで地元の名家の息子、奔放で自分の神と共に生きる少年「コウ」と出会う、というお話。ぜひ予告を見てね。

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告知ポスターに書かれた「一生ぶん、恋をした。」という文句は、大体の青春ラブストーリーだと陳腐になってしまうけれど、「溺れるナイフ」においては、本当にその文句そのままでしかない。コウが夏芽にしたこと全てのせいで、コウは夏芽の神様になってしまった。
「お前はキレイだから自分のものにしたかった」と夏芽に語るコウは、田舎でコウの傍にいて、普通の幸せを得ようとする夏芽を突き放す。お前の天職が何なのかはもうわかっているだろう、と、夏芽が辞めようとしている芸能活動の世界への扉を指し示す。夏芽を貶めようとするもの全てを引きちぎって、殺して、焼き尽くして、彼は完全な夏芽の神様となる。夏芽は神様のコウに指示された扉を開き、ライトのまぶしい世界へ帰っていく。

これは夏芽が、神様を得る物語だったんだと思う。

物語の終盤は、フィクションと夢と現実、過去と未来が交互に織り込まれたような構造をしている。一年前の夏芽を襲った男が、再び夏芽のもとに現れる。夏芽を今度こそ犯し、貶めようとする男を、コウが制する。夏芽はコウに「そいつを殺して」と叫ぶ。殺そうとするコウを、2人の友人であるカナが止める。男は夏芽がコウに譲り受けたナイフで自らを傷つけ、男は絶命する。カナは夏芽に血にまみれたナイフを渡し、「全部海に沈める。もう二度とコウに会わないで」と告げる。沈んでいくナイフ。溺れるナイフ。そしてシーンは、夏芽が映画賞を受賞するシーンへ移る。この一連のシーン全てが、夏芽の主演した映画の中のことだったかのような演出。夏芽が夢とうつつを交互に行き来している様子がその間にさらに挟まれ、濁流のようにラストシーンへ流れ込む。

夏芽は、初めてコウと行った夏祭りで、コウが男を止められなかったことを責める。なんであいつをやっつけてくれなかったのかと、揺れる小舟の上でコウに迫る。コウは「お互いに幻想を見ていただけ」と夏芽をかわす。自分が犯されそうになったとき、神様であるはずのコウは自分を助けてくれなかった。神様は神様でなければ神様でない。私と恋人にならないなら、私を普通の女の子として傍においてくれないなら、何故男を殺してくれなかったのか。なぜ神様になってくれなかったのか。あいつを殺して。恋人でないなら神様でいて。

コウは一年越しに、夏芽のその願いを叶える。「殺して」と叫ぶ夏芽のため、コウは男を殺すべく拳をふるう。コウのナイフで男が自ら命を絶つという、間接的な形にはなるけれど、コウは男を殺す。夏芽を貶めた男を殺し、夏芽を解き放つ。そうしなければ、夏芽は自由になれなかった。コウは夏芽を自由にしてやらなくてはならなかった。でなければ、夏芽はコウの「巫女」になれない。コウは夏芽が、自分の持てるものを全て使って、遠くまで行くところが見たかった。それが面白いからだ。最高に面白いからだ。神様は、巫女が美しく舞うところを見たかった。それが自分たちが共に生きていくうえで、一番まっとうな形だと思っていた。だからコウは夏芽のために男を殺し、夏芽を開放する。「ここであったことは何も気にしなくていい」と夏芽に語り掛ける。そして夏芽はやっと、自分が一番美しく舞える場所へ戻っていく。

夏芽はこれから、一生をかけてコウを追い続ける。何をしていても、誰に認められても、「コウちゃんはもっとすごいんだよ!」と、あの金色の髪を思い出す。
それは強烈な恋と憧れでできた契約のようなもので、それこそが、映画ポスターのキャッチコピー「一生ぶんの恋」なのだ。絶対にかなうことのない恋。終わらない恋。夏芽はこの先、安らぎを得られる恋人を見つけることはあるかもしれないけれど、神様を見つけることはない。絶対にない。コウとは二度と会わないだろう。彼は神様だから。神様に恋をすることはできても、神様と恋人になることはできない。
ラストシーンは、夏芽の解き放たれた魂が見せた美しいワンシーンだった。白いタキシードを着たコウが、白いワンピースを着た夏芽をバイクの後ろに乗せ、花びらをまき散らしながら疾走する。コウの背中につかまりながら「……私の神さん」と夏芽がつぶやいて、映画は終わる。コウが自分の「神さん」を持っているように、ついに夏芽も、コウという自分の「神さん」を得た。





映画のキモとなる夏芽とコウのシーンに、寄り添うようにして描かれた大友とのシーン。
夏芽を気にかけ、まっとうな恋心を抱き、「なんでもしてやりたい」「困ったことがあったら俺に言え」と語り掛ける大友は、夏芽の神様にはならなかった。大友はもとより、神様を信じてはいないんだろうと思う。コウも夏芽も、大友には神様に見えない。どんなに美しくても、鮮烈で刹那的に生きていても、大友はそれを祈りの対象にしようとは思わない。神様がいなくても生きていける人間。大友が「神様がいる海だから立ち入ってはならない」という町の掟を守るのは、「神様が本当にいるから」ではなくて、「町のみんなが大事にしている掟だから」だからでしかない。
夏芽が「大友といると明るい気持ちになれるの」とコウに語ったのは、嘘ではない。皆が「美しい」「キレイ」「美人」とほめそやすことに、夏芽はいつも居心地の悪さを感じているようだった。誰もがそう言いながら、夏芽にそれ以上を望んでいるようには見えなかったからかもしれない。けれど大友は、夏芽の美しさを「おしゃれさんやな」「アンニュイ美少女やな」と茶化す。ズラす。リアルな手のひらで触れようとする。自分が道化になって笑わせる。そして、東京へ戻るから別れようと告げる彼女を、渾身のカラオケ「俺ら東京さ行ぐだ」で送り出す。

家業は兄が継ぐ、自分はこの町から出る、と大友は語った。大友はこれからもずっと神様を持たないまま、夏芽もコウも、町のことも忘れないまま、歳をとる。



夏芽が、道端の祠へ手を合わせ「私には普通の幸せは、もうないんでしょうか」と語り掛けるシーンが胸に残っている。夏芽がほしかった「普通の幸せ」は、なんとなく想像がつく。夏芽がコウのことを「私の恋人」とか、「私の彼氏」と言えたなら、どんなに「普通の幸せ」だっただろうと思う。ラストシーン、信じられないほど幸福そうに、でも諦めたような悲しみをたたえて「私の神さん」とつぶやいた夏芽のことを、本当に愛おしく思う。解き放たれてはいても、神への恋はかなわないまま、一生夏芽の美しい胸の中にある。