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こみねもすなるだいありー

全然何にも怖くない

花と鳥と風と月と藤井流星

美しい自分との向き合い方というのは、美しくない人間が思っているよりも困難なものなのかもしれない。

朝起きて、鏡の中にいる自分がどこからどう見ても美しく整っているとしたら、どうなってしまうだろうとよく考える。人生楽しいだろう、今まで美しくないことを理由にしなかったことを全部してしまうだろう、と思う反面、私には無理だ、とも思う。美しいがゆえに、ある種の土俵に引っ張り上げられたリ、妙な自意識過剰に陥ったり、そういうことが起こってしまうような気がする。
美しさは罪であるという文脈は、かつてからあるものだ。美しさのせいで国が傾いたり、美しさのせいで人が殺されたり、そういうことが時々起こる。美人薄命、という言葉もある。美しいことは、それを理由に何かを削られていくことなのかもしれない。当事者にしかわからないと言ってしまえばそれまでだけれど。自分と向き合っていくことはとても難しい。平凡な自分と向き合うこともそうだけれど、逆もまた、きっとそうだ。

藤井流星は美しい。カッコイイ、かわいいと、容姿を褒める言葉はたくさんあるが、彼には「美しい」という言葉がとてもよく似合う。彼の鼻筋なんかは「鼻梁」と呼びたくなるし、彼の顔つきは「かんばせ」と呼びたくなる。言葉を尽くして語るに足る。ただ立っているだけでいい。彼は静かに美しい。

彼の美しさは、星が持つそれと似ている。彼の名前に含まれている星は、何も言わず何万年も光り続けている星。彼の美しさは物言わぬ美しさだ。私はそれをとても好ましく思う。彼は自分の美しさと必要以上に向き合わない。必要以上に自覚的にならない。それは先に述べた、「美しい自分との向き合い方」において、一つの正解とも言えるのではないかと思っている。

花鳥風月、という四字熟語が頭の中をよぎる。自然界に存在する美しい風景。花や鳥、風や月。それらのすべてが、自分たちの美しさをまるで知らないようにふるまう。だから私たちはそれを心ゆくまで愛でられる。何も言わずに眺めていられる。藤井流星も、ある部分でそうなのではないかと思う。星は自分の美しさを誇らない。それでも、何万光年先の違う場所へ光を届ける。自分の美しさが人の心を救うことがあると知ったとき、星はどう揺らぐのだろう?彼の名前が流れる星だなんて、できすぎた話だ。運命みたいな話だ。彼はきっと自分の美しさを知って、そして意識から手放したのではないか。22年鏡を見てきて、自分のほかと比べた美しさに自覚的にならないほど、彼は鈍感ではないだろうから。けれど、彼はそれを必要でないぶん手放した。これだけ知っていればいいと、自分だけがお守りにするべき自分だけの美しさだけを、ブローチのように胸に留めたのではないか。それはきっと外面的な美しさを、「美徳」の類で固めた、この世に二つとないブローチだ。

彼は自然と、自分との向き合い方を知っている。それはどこで手に入れた生き方なのか。その答えを、彼の言葉で聞ける日が来たら、嬉しい限りだ。美しさで狂う人もいるけれど、美しさに、まっとうに生きていく力を教わる人もいる。後者がきっと、藤井流星なのだろうと思う。