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こみねもすなるだいありー

全然何にも怖くない

怖かったひとりの夜を文字に変えて夜だけひらく庭であそぼう

自分のこと 短歌 自分の考え

 あけましておめでとうございます。寒いですね、いかがお過ごしでしょうか。

 

 去年は結局ぽつぽつとしかブログを更新できなかったので、時間のある年始のうちに少し時間を使って、私が短歌について思ってることを書いてみようかなと思います。

 

1・私が短歌と出会ったときのこと

 

 私はもともと「活字」が好きで、天声人語も詩集もお菓子の成分表も、見境なく読む子供でした。作文コンクールや詩のコンクールで賞をいただいたりしたこともありました。

 その頃の私はずるい子供でした。自分が文章が得意なのを理解したうえで、「こう書けば大人に褒めてもらえるだろうな」という気持ちで文章を書く子供でした。

 今となっては、一概にそれが悪いことだとは言えないな、と思うようにもなったのですが、私は「誰かに認められたい」という気持ちだけで文章を書いていたような気がします。それは何だかあんまり楽しいことでもなくて、「私ってなんで書くんだろうなぁ。みんなに褒められるのが楽しいだけで、私、あんまり書くことは楽しくないなぁ。」と思っていました。

 

 そういう「誰かに褒められたくて書く」というスタンスのまま、私は高校生になりました。ものを書く部活に入部して、いろんなものを書かせてもらったけれども、やっぱり「書きたくて書く」という気持ちにはなれませんでした。

 

 私が短歌に出会ったのは、そんな高校二年生の冬です。

 

 

 このaskにも書いてるんですが、私が短歌をはじめたきっかけになったのは、枡野浩一さんの『ショートソング』という本です。

ショートソング (集英社文庫)

ショートソング (集英社文庫)

 

  この本、「短歌がうまくなりたい」という方に効果的かどうかは疑問ですが、「今の短歌ってどんな感じなの?」「短歌って難しいよね」という方にはとてもおすすめできる本だと思っています。当時短歌のことを何も知らなかった私には、ストーリーと一緒に、わかりやすい口語体の短歌がするすると頭にしみこんでくる感じがしました。

 

 「誰かに褒められるため」書いていた私は、このときはじめて「じぶんのため」書くことができました。当時の私の寂しい気持ち、空しい気持ちを、短歌という三十一文字に凝縮することができました。それがすごく嬉しくて、むずがゆくて、もう一度自分が生まれたような気持ちになったのを今でも覚えています。

 

 「短歌」という小さな窓を手に入れた私は、その透き通った窓から世界を見ることを覚えました。日常の風景を、誰にも言えない感情を、その窓から切り取ることも。   この窓を開け放っていれば、幾分か心の風通しがよくなりました。醜いと感じる気持ちも、窓から切り取れば、それは「短歌」というひとつの作品になります。誰に見せるでもない、私だけの作品です。こっそり好き勝手に詠み散らしていました。

 

 それからしばらくして、Twitter上で少しずつ短歌を詠むようになりました。同じように短歌を詠む人と交流してみたいと思ったのがきっかけでしたが、あまり短歌を知らない方にも感想をいただくことができたり、予想外のうれしさもたくさんありました。

 こうして短歌をみなさんに見ていただくことが増えたのですが、短歌に関しては「褒められたいから書く」という気持ちはあまり浮かんでこないのです。不思議なことです。何故でしょうか、自分でもよくわかりません。少しだけ思うのは、短歌が自分の心の内を晒すものであるから、「こう書けば褒めてもらえる」等と小細工することができない、というのが要因の一つとして挙げられるのではないか、ということだけです。

 

2・私が短歌を好きな理由

 

 これは大きく分けてふたつあります。

 

 まず一つ目は、「言葉の響きに敏感になれるから」。

 短歌は5,7,5,7,7という独特のリズムがあるせいで、みなさんそのリズムにのっとって短歌を味わうことが多いと思います。そのリズムを確かめるために、短歌を口に出してみるという方もいらっしゃるかもしれません。

 

たとえば、

こちらの短歌なのですが、「短歌を口に出して味わう」という行為を念頭に置いて詠んでみました。

 サ行を発音するとき、歯と舌の間を細く息が通っていきますよね。その頼りなげな息の感覚と、「君が無形の人になる=君の実態がなくなる、砂のように崩れる」という感覚をリンクさせたくて、サ行の「さらさら」「ささやく」という言葉を意識的に重ねて使いました。「さらさら」には、砂(頼りなげな感覚を担わせるアイテム)が流れる擬音という役割も持たせたつもりです。

 このような意識を持ってこの短歌を詠んだところ、

 このような意見をいただくことができました。意識した「サ行の重なり」を読み取ってくださったことが嬉しく、この短歌は今でも印象深い一首です。

 このように、私は短歌を詠むことで「この言葉はこんな響きのイメージがあるから、意識的に使ってみよう」など、言葉の響きに敏感になることができました。今回はサ行を例に挙げましたが、他にはガ行には機械っぽい、濁り気のあるイメージ……などなど、様々ですね。

 

 そして二つ目は、「定型がおおよそ定められているから」。

 

 短歌は先ほど述べたように、5,7,5,7,7の合計三十一文字程度(多少はみ出しても構わないのです)の定型がおおよそ定められています。つまり、限られた文字数で、自分の述べたいことや、その歌の世界観を表現しなければならないのです。

 これを窮屈と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、私にとってはその定型が非常に心地よいものでした。それも私には、小説などを書き始めると、「あれも、これも…」と、たくさんの要素を詰め込み過ぎてしまう傾向があったからなのです。「ここまで」という明確な定まりがないため、とにかく自分の書きたいことをすべて書かなくては、というような気持ちがあったのです。

 しかし短歌ではそうはいきません。文字数が少なく限られていますから、これ!という核になる言葉があれば、それがはみださないように他の言葉と調和をとり、最終的に口に出して読み、短歌の定型として自分が納得できるかを確かめます。たくさんの文字数を割いて表現したい部分があれば、そうでないところは抑え目にして、うまく一首の中でコントラストを付けなければならないわけです。

 

 この短歌の「縛り」とも呼べそうな定型に言葉を当てはめる作業は、お弁当箱におかずを詰める作業に少し似ているかもしれません。メインのおかずを決め、メインの隙間に彩りよく他の脇役のおかずを詰めていく作業です。あとは、段ボールにきれいに隙間なく荷物を詰める作業なども似ているかも。これだと、少しイメージしやすいかもしれませんね。

 表現したいことをコンパクトにまとめ、定型にぴったりと当てはめていく作業は、文章に要素を詰め込みすぎる私にとっては難しいことですが、非常に手ごたえがありますし、ぴたっと言葉が当てはまったときの快感はいいものです。この「ぴたっと」感のために短歌を詠んでいるといっても過言ではないかもしれません。

 

 

 以上、「私が短歌と出会ったときのこと」そして「私が短歌を好きな理由」について、覚書もかねて書いてきました。少し長くなりそうなので、残りの短歌についての考え事は、また今度の記事でまとめることにします。

 

 まだまだへっぽこ短歌好きですが、少しずつ自分が納得できる一首へ近づいていければいいな、と思います。

 もしこの記事を読まれて「短歌、面白そうかも!」と思われた方は、是非短歌の世界へ足を踏み入れてみてはいかがでしょうか?楽しいですよ!

 

 それでは、芦屋こみねでした。