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こみねもすなるだいありー

全然何にも怖くない

「来いよ」って言われてクリスマスは大阪へ行った

6月に今の仕事を始めた。毎日同じ制服を着て、同じ場所へ通うのは高校生の時以来で、泣きながらなんとか免許も取って、職場の人はみんな優しくて、私は頑張ってた。自分で自分のことを頑張ってるとか言うのどうかなとも思うけれど、それでも頑張ってたと思う。すごく勉強をした。私ができるのは勉強くらいしかないんじゃないかなと思って。

ある日突然、「私ってこのままでいいのかな」と思った。私ちゃんと変われているんだろうかと。同じ毎日を淡々と続けることは、想像以上に体力が必要だった。毎朝起きて、仕事へ行って、まっすぐ家へ帰ってくると、「このままでいいのかな」と思い始めて数日で死にたくなった。なんでなのかわからない。でもこんなにはっきり消えたいとか、あるいはぼーっと車に乗っていたら一時間経っていたとか、そういうことが初めてだった。今まで前向きで明るいこみねちゃんとして生きてきた。これからもずっとそういたかった。でもどうしても浮かんでいけなかった。つらかった。諦めたくなかった。ちゃんとすべきことをこなして、少しずつ上へ上へあがっていきたかった。認められたいなら頑張るしかないと思った。でもつらかった。

趣味のことは、ほとんど上の空だった。テレビも見ない。みんなが楽しそうで少し妬ましかった。なんでみんなそんなに楽しそうなんだろう? と思った。そういう風に考える自分が最低で、すごく嫌な人に思えた。自己嫌悪しかなくて、照史くんのことを見たくなくなった。照史くんのことは変わらず好きなのに、照史くんを見ていられなくなった。

限界かもしれないと思った日、車に乗って一人になった瞬間に、何も悲しくなくてどこも痛くないはずなのに泣けてきた。しばらく走っていれば止まるだろうと思って、近くの本屋さんまでドライブしたけれど、本屋さんの駐車場で動けなくなってしまった。何をどう解決すればしんどくなくなるのか、皆目見当がつかなかった。誰もが私に優しいのに、なんで私はこんなにイヤイヤ言っているんだろうと、自分が情けなかった。家に帰ればお父さんもお母さんも待っているのに、友達もいるのに、心配してくれているのに、私はなぜ普通に生きられないのか?と思った。

なんとか家に帰りついて、もちろんボロボロになった顔をお母さんに心配された。うまく説明できるつもりはなかったけれど、友達のひとりに「身近な人に相談してみたほうがいいよ」と言われたことを思い出して、お母さんと話をした。案の定うまく伝わらず、お母さんはひたすら私を心配し、私はひたすらそれを否定しまくって終わった。ひどいことを言ってしまった。お母さんの前で死にたいと言ってしまったことがショックだった。

部屋に戻ると、青い封筒がぺらっと置いてあった。すぐにチケットだってわかった。お父さんかお母さんが、簡易書留で来たのを受け取ってくれていたんだろう。クリスマスに行くつもりだった、ジャニーズWESTのコンサート。もう行くつもりがなかった。行ける元気がなかった。今の私が楽しい場所に行っていいはずないと思った。誰かに譲って行ってもらえれば、席を確認して友達に相談しよう、と、封を開けた。

見慣れない席種だった。8階?なんだこれはと思って検索すると、京セラドーム大阪には「ビスタ席」なるものがあるらしい。スタンド席のさらに上、ビスタルームに備え付けられたバルコニー席からコンサートを見る。8階はその一番上。どうやら席に着くとき、必ず身分証を呈示するらしかった。チケットを持ったまま思案した。私が芦屋こみねですよと身分証を呈示できる人にしかこのチケットが使えないのなら、このチケットは私にしか使えない。誰かに譲ったって意味がない。それに気づいた瞬間、頭の中がちかちかちかちかした。

照史くんのことを思い出した。久しぶりに思い出した。「見に来いよ」って言われている気がした。そんなの誰だって思う、ファンのかわいい夢だっていうのはわかっているけれど、でも私の名前が書いてあって私にしか使えないチケットは、その時の私の手をぎゅーっと握ってくれた。つらい気持ちと悲しい気持ちと、突然のあったかさで混乱した。私はチケットを封筒から出して、部屋の壁にテープで貼った。起きてすぐベッドから見える場所に貼って、その日眠った。次の日からは、毎朝起き上がって、貼り付けてあるチケットを見て、ベッドから降りて仕事へ行った。とりあえず、クリスマスまでは頑張ろうと思って、毎日決まった時間に起きた。

24日、久しぶりに、夏ぶりに新幹線に乗って大阪へ向かった。友達と会った。初めまして!と優しく話してくれる人もいれば、私が落ち込んでいるのを知っていて「心配してたよ」と抱きしめてくれる人もいた。友達の前でうまく悲しいとか、しんどいとか、上手に気持ちを言えなくて、ヘンにへらへらしてしまったけれど、私はとても嬉しかった。人に会って、こんなに救われた気持ちになると思っていなかった。自分だけではどうにもならないとき、こんな風に人が助けてくれることがあるんだと思った。コンサートへ来てよかったな、照史くんを好きでよかったな、と思った。

ビスタ席の入り口は、びっくりするくらいひっそりした場所にあった。係員のお姉さんにチケットを切ってもらって、エレベーターでぐんぐん8階まで上がって、とうとうビスタルームのバルコニーへ出た。びっくりした。私の上にも後ろにも席がない!私は京セラドームの一番てっぺんに来た。圧巻だった。広くて、大きくて、皆が袋から出して点けたペンライトのあかりがどんどん増えていくのが分かった。素敵だった。ため息が出た。私はペンライトと、双眼鏡と、ハンカチを膝に置いて開演を待った。

センターステージの白い幕が落ちた瞬間から泣いていた。会えてうれしい!という気持ちより、今年一年の自分のことを思い返して泣いていた。辛いことがたくさんあって、底から上を見ていたけど、こんな風にきちんとそれが返ってきたことがうれしかった。初めてドームのステージに立つ照史くんは、泣かない泣かないと言っていたくせに泣いていた。たくさん泣いていた。私の一番好きな、まっとうな人間として頑張っている照史くんだった。

照史くんが事務所に入って、今年ドームのステージに立つまで、14年かかったらしい。照史くんが言っていた。14年って、到底想像がつかなかった。今までどれだけ「まだ仕事を始めたばっかりなんだから、今焦ったって仕方ない」と自分に言い聞かせても理解できなかったのに、その照史くんの一言で、すとんと私の苦しみが終わった。照史くんが14年頑張ってあこがれのステージにたどり着いたように、私もゆっくり、長い時間をかけてどこかを目指せばいいんだと素直に思えた。今日頑張る、今日頑張る、今日頑張る、と、小さなステップを積み重ねていけば、私もきっと照史くんが味わったような「最高」を味わえる。それは夢見る夢子の夢ではなくて、照史くんがちゃんと教えてくれた、真面目に生きる醍醐味みたいなものかもしれないと思った。

楽しいクリスマスが終わって、新幹線で山口へ帰る間も、胸がずっとほこほこしていた。終わっちゃって悲しい気持ちじゃなくて、これからはどういう気持ちで生きよう?という、なんか底抜けな明るさがあった。雪だるまのペンライトを持って、大好きな友達からのメッセージをたくさんもらって、大好きなジャニーズWESTの曲を聞きながら新幹線に乗っている私は、めちゃくちゃ愉快で楽しく人生生きてる人みたいで面白かった。あのビスタ席のチケットがなかったら、私いまどんな気持ちだったんだろうなぁって思った。枝分かれした未来のうちの一つに私はいて、それは照史くんとかジャニーズWESTとか大好きな友達とか、大事な家族とかがこっちだよ~と導いてくれた未来だった。とりあえず帰ったらすぐに、お母さんに楽しかったよって言って、たくさん話をして、もう大丈夫だよと伝えたいなぁと思った。

今年一年、色んなことがあって色んなことで悩んだけど、最後にちゃんと年末調整があって、私が払い過ぎた落ち込み税が控除されて返ってきたみたいな、そんなクリスマスでした。照史くんありがとう。来年も好きでいます。助けてくれて本当にありがとう。

溺れるナイフ - 神様を得た15歳 -

自分の考え 作品レポート 映画

gaga.ne.jp

せっかく楽しみにしていた映画なので、初日に見に行ってきた。


東京で芸能活動をしていた美しい15歳の「夏芽」が、家族と共に祖父のいる田舎へ引っ越し、そこで地元の名家の息子、奔放で自分の神と共に生きる少年「コウ」と出会う、というお話。ぜひ予告を見てね。

www.youtube.com


告知ポスターに書かれた「一生ぶん、恋をした。」という文句は、大体の青春ラブストーリーだと陳腐になってしまうけれど、「溺れるナイフ」においては、本当にその文句そのままでしかない。コウが夏芽にしたこと全てのせいで、コウは夏芽の神様になってしまった。
「お前はキレイだから自分のものにしたかった」と夏芽に語るコウは、田舎でコウの傍にいて、普通の幸せを得ようとする夏芽を突き放す。お前の天職が何なのかはもうわかっているだろう、と、夏芽が辞めようとしている芸能活動の世界への扉を指し示す。夏芽を貶めようとするもの全てを引きちぎって、殺して、焼き尽くして、彼は完全な夏芽の神様となる。夏芽は神様のコウに指示された扉を開き、ライトのまぶしい世界へ帰っていく。

これは夏芽が、神様を得る物語だったんだと思う。

物語の終盤は、フィクションと夢と現実、過去と未来が交互に織り込まれたような構造をしている。一年前の夏芽を襲った男が、再び夏芽のもとに現れる。夏芽を今度こそ犯し、貶めようとする男を、コウが制する。夏芽はコウに「そいつを殺して」と叫ぶ。殺そうとするコウを、2人の友人であるカナが止める。男は夏芽がコウに譲り受けたナイフで自らを傷つけ、男は絶命する。カナは夏芽に血にまみれたナイフを渡し、「全部海に沈める。もう二度とコウに会わないで」と告げる。沈んでいくナイフ。溺れるナイフ。そしてシーンは、夏芽が映画賞を受賞するシーンへ移る。この一連のシーン全てが、夏芽の主演した映画の中のことだったかのような演出。夏芽が夢とうつつを交互に行き来している様子がその間にさらに挟まれ、濁流のようにラストシーンへ流れ込む。

夏芽は、初めてコウと行った夏祭りで、コウが男を止められなかったことを責める。なんであいつをやっつけてくれなかったのかと、揺れる小舟の上でコウに迫る。コウは「お互いに幻想を見ていただけ」と夏芽をかわす。自分が犯されそうになったとき、神様であるはずのコウは自分を助けてくれなかった。神様は神様でなければ神様でない。私と恋人にならないなら、私を普通の女の子として傍においてくれないなら、何故男を殺してくれなかったのか。なぜ神様になってくれなかったのか。あいつを殺して。恋人でないなら神様でいて。

コウは一年越しに、夏芽のその願いを叶える。「殺して」と叫ぶ夏芽のため、コウは男を殺すべく拳をふるう。コウのナイフで男が自ら命を絶つという、間接的な形にはなるけれど、コウは男を殺す。夏芽を貶めた男を殺し、夏芽を解き放つ。そうしなければ、夏芽は自由になれなかった。コウは夏芽を自由にしてやらなくてはならなかった。でなければ、夏芽はコウの「巫女」になれない。コウは夏芽が、自分の持てるものを全て使って、遠くまで行くところが見たかった。それが面白いからだ。最高に面白いからだ。神様は、巫女が美しく舞うところを見たかった。それが自分たちが共に生きていくうえで、一番まっとうな形だと思っていた。だからコウは夏芽のために男を殺し、夏芽を開放する。「ここであったことは何も気にしなくていい」と夏芽に語り掛ける。そして夏芽はやっと、自分が一番美しく舞える場所へ戻っていく。

夏芽はこれから、一生をかけてコウを追い続ける。何をしていても、誰に認められても、「コウちゃんはもっとすごいんだよ!」と、あの金色の髪を思い出す。
それは強烈な恋と憧れでできた契約のようなもので、それこそが、映画ポスターのキャッチコピー「一生ぶんの恋」なのだ。絶対にかなうことのない恋。終わらない恋。夏芽はこの先、安らぎを得られる恋人を見つけることはあるかもしれないけれど、神様を見つけることはない。絶対にない。コウとは二度と会わないだろう。彼は神様だから。神様に恋をすることはできても、神様と恋人になることはできない。
ラストシーンは、夏芽の解き放たれた魂が見せた美しいワンシーンだった。白いタキシードを着たコウが、白いワンピースを着た夏芽をバイクの後ろに乗せ、花びらをまき散らしながら疾走する。コウの背中につかまりながら「……私の神さん」と夏芽がつぶやいて、映画は終わる。コウが自分の「神さん」を持っているように、ついに夏芽も、コウという自分の「神さん」を得た。





映画のキモとなる夏芽とコウのシーンに、寄り添うようにして描かれた大友とのシーン。
夏芽を気にかけ、まっとうな恋心を抱き、「なんでもしてやりたい」「困ったことがあったら俺に言え」と語り掛ける大友は、夏芽の神様にはならなかった。大友はもとより、神様を信じてはいないんだろうと思う。コウも夏芽も、大友には神様に見えない。どんなに美しくても、鮮烈で刹那的に生きていても、大友はそれを祈りの対象にしようとは思わない。神様がいなくても生きていける人間。大友が「神様がいる海だから立ち入ってはならない」という町の掟を守るのは、「神様が本当にいるから」ではなくて、「町のみんなが大事にしている掟だから」だからでしかない。
夏芽が「大友といると明るい気持ちになれるの」とコウに語ったのは、嘘ではない。皆が「美しい」「キレイ」「美人」とほめそやすことに、夏芽はいつも居心地の悪さを感じているようだった。誰もがそう言いながら、夏芽にそれ以上を望んでいるようには見えなかったからかもしれない。けれど大友は、夏芽の美しさを「おしゃれさんやな」「アンニュイ美少女やな」と茶化す。ズラす。リアルな手のひらで触れようとする。自分が道化になって笑わせる。そして、東京へ戻るから別れようと告げる彼女を、渾身のカラオケ「俺ら東京さ行ぐだ」で送り出す。

家業は兄が継ぐ、自分はこの町から出る、と大友は語った。大友はこれからもずっと神様を持たないまま、夏芽もコウも、町のことも忘れないまま、歳をとる。



夏芽が、道端の祠へ手を合わせ「私には普通の幸せは、もうないんでしょうか」と語り掛けるシーンが胸に残っている。夏芽がほしかった「普通の幸せ」は、なんとなく想像がつく。夏芽がコウのことを「私の恋人」とか、「私の彼氏」と言えたなら、どんなに「普通の幸せ」だっただろうと思う。ラストシーン、信じられないほど幸福そうに、でも諦めたような悲しみをたたえて「私の神さん」とつぶやいた夏芽のことを、本当に愛おしく思う。解き放たれてはいても、神への恋はかなわないまま、一生夏芽の美しい胸の中にある。

お葬式

昨日、祝日で1日休めることにほくほくしながら帰宅したら、父に「葬式に行ってくれ」と頼まれた。遠縁のおじいさんが亡くなって葬儀に出席しなければならないが、明日はどうしても外せない用事がある。あいにく母も旅行中でいないので、こみねが行ってくれないか?とのことだった。こういうのは誰が行くかとかではなくて、家からきちんと誰か出席する、というものなので、あまり気にしないでいいと。私はそのおじいさんのことを知らなかった。親戚筋の苗字だったけれど、会ったこともなければ顔も知らなかった。父はお世話になっていたらしい。通夜には父が出席し、葬儀は私が代理で出席することになった。旅行中の母に喪服を借りて、朝から行ってきた。

葬儀は、私の父方の祖母と、母方の祖父の葬儀に出席したことがあり、そのときと同じ式場だった。町に一つしか式場と火葬場がないので、当たり前と言えば当たり前。親族席の一番端に座り、促されるまま焼香をして、心配して優しくしてくれる知らないおばさんの近くにいた。

私の知らないおじいさんの、笑顔の写真が祭壇に飾られていた。娘さんがたくさんいる人だったようで、お孫さんもたくさんいた。制服を着ている高校生の男の子もいれば、最近働きだしたというような若い女の子もいた。一番小さなお孫さんは来年の春から小学生になるらしく、とてもかわいらしい女の子だった。ランドセルは赤色にするらしい。ピンクじゃなくていいの?とおばさんに聞かれていた。

私は、自分の祖父と祖母の葬儀を思い出していた。祖父は小学5年生のとき、祖母は高校3年生のときに死んだ。祖父のときは、放課後学校に連絡があり、両親が車で迎えに来て、制服のまま祖父の顔を見に行った。祖母のときは、もう17、8歳だったし、家族が祖母の介護をしていたので、危ない状況だということは分かっていた。早朝両親に「危ないから行こう」と起こされ、そのまま学校へ行けるよう制服を着て病院へ行き、祖母の死に際をみんなで看取った。そういう、死ぬ間際や、死んですぐのことは覚えているのに、葬儀のことはなぜかあまり覚えていない。どんな風だったかとか、家族がどんな顔をしていたかとか。

お念仏が終わり、棺の中に花を手向けるというとき、赤色のランドセルに決めた小さい女の子が泣きだした。おじいちゃんおじいちゃんと言って泣いていて、思わず胸が詰まった。式が始まるまでは特になんともなく過ごしていたお孫さんたちも、みんなぽろぽろ泣きだした。みんなおじいさんとの思い出が色々あるんだろうと思う。

おじいさんがお骨になる間、お斎にも呼んでもらった。なかなか所在が無くてどうしようと思ったけれど、ご親族の方に「来てくれてありがとう」とおもてなしをしていただいて、ちょっとホッとした。さっき心配になるほど泣いていた女の子は、お子様ランチを食べてニコニコしていたので安心した。お小遣いをもらったようだった。

私が祖父や祖母に「こんなによくしてもらった」と思うことはたくさんある。でも、その「こんなに」を具体的には書き表せない。金銭的な援助はもちろんしてもらったと思うし、面倒もたくさん見てもらった。私本人は、それが具体的にどんなことだったのか知ろうとも思わなかった。ただ受け取って、祖父や祖母とお別れしただけだった。それを少し後悔していた。
けれど葬儀の間、泣いているお孫さんたちを見て、それでよかったのかもしれないなぁと思った。「優しくしてもらった」という、ただそれだけの漠然とした記憶だけれど、それは本当に、望んでも得られない記憶だと思う。漠然としているからこそ、忘れがたい記憶だと思う。その記憶を、私くらいの歳になったときハッと鮮明に思い出したりして、ちょっと切なくなって、それで十分なのかもしれない。祖父や祖母も、それ以上は何も望んでいないのかもしれない。

最後にお土産とお花をいただいて帰宅した。母の喪服は超絶肩パットが入っていたようで、帰って鏡を見たら自分がロボットみたいで笑った。勉強になった。色々思い出せてよかった。でもやっぱり疲れたので、夕方までしばらく眠った。

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恋の話ができる人

高校2年生から3年生の間はクラスが変わらなかった。進学先等で振り分けられ、私の所属していたクラスは男子2:女子1の少人数クラスで、女子生徒は両手で数えられる人数しかいなかった。「一緒にお弁当食べよう」みたいなやりとりにハラハラしたのは、その時が初めてだった。私は見事に仲良しにあぶれて、華やかでかわいい、学校の人気者だった女の子2人になぜかくっついてお弁当を食べていた。なぜそういうことになったのかわからないし、お弁当を食べている間何を話していたかも全然覚えていない。私が「一緒に食べていい?」って言ったのかもしれない。彼女たちにそう聞いたとき、緊張しすぎて記憶から消えたのかもしれない。

ゆるいクラスの私たちは、色んな教科が「受けても受けなくていいよ」という扱いになっていた。数学はⅠ、A、Ⅱまでは他のクラスと同じように受けたけど、Bから先は授業がなかった。倫理の授業は、代わりに家庭科の授業を受けてもよかった。私は他の生徒たちが倫理を学んでいる間、家庭科の授業で創作ケーキを考えたり、中庭で七輪を使ってカレーを煮たりしていたため、こんなに倫理観に欠けた大人になってしまった。
地歴公民教科はどれか1教科を選択して履修すればよくて、私は適当に世界史を選択した。クラス分けされた様子を見ると、世界史を選択したのは、私と、一緒にお弁当を食べていた彼女たち2人と、全部で3人だった。他の子たちはみんな日本史。私と彼女らは、地歴公民の時間になると3人で教室を移動し、先生1対生徒3で授業を受けることになった。

世界史の授業はテキストを中心にしたベーシックなものだったけど、私以外の女の子たちの受験が終わると、授業のやり方は少し変わった。卒業ギリギリまで大学入試を受けていた私と先生がマンツーマンで苦手つぶしをし、他の2人は隣の教室で、世界史名場面をまとめたビデオを鑑賞する。先生は隣の教室を見にいったりするわけではないので、2人はビデオが流れている教室でケータイをいじったり、おしゃべりをしたりしていたみたいだった。

ある日、片方の女の子が学校を休んだ。確か体調不良だったと思う。先生もその日は出張か何かで不在で、私と、もう片方の女の子2人で自習をしているようにと担任教員に言われた。私とその女の子は、2人でえっちらおっちらと階段を上って教室移動をし、ガランとして寒い教室で、とりあえずノートと教科書を広げて座った。

この時間をどうしたらいいか戸惑った。

特に共通の話題があるわけでもない。クラスの話も特にすることがない。そんなとき、その女の子が「私の彼氏がさぁ」と口を開いた。
彼女に彼氏がいた(なんかこんがらがる書き方)ことは知っていたけど、そういう話をしたことはなかった。彼氏の話を聞きたい!と思ったこともなかった。ただ住む世界が違うという月並みな表現ばかりが机の上に散らばっていて、彼女たちと向き合うと全然うまく話せなかった。そんな風に思っていた私は、いきなり「彼氏がさ」と口火を切られて混乱した。彼氏の話を私にするんですか?私に彼氏の話をしてもいいと思ったんですか?

彼女は、最近起こった彼氏との出来事を話して、彼氏のちんぷんかんぷんな振る舞いを私に愚痴った。「へ、へぇ」「大変だね」と相槌を打つのが精いっぱいだった。私は混乱して困惑して答えに窮してはいたけれど、それと同じくらい舞い上がっていた。

私、恋の話ができる人だと認識されているんだ、と思った。彼女にとっては「彼氏の話をできる人」のハードルが低く、私にとって「彼氏の話をできる人」のハードルが高かっただけかもしれないけれど、私は彼女がひたすら話す彼氏の話を、特別な何かとして聞いていた。私、人の彼氏の話聞いてる。私、今人の彼氏の話聞いてるんだ。彼氏の話できる人って思われてるんだ。

高校在学中、私に浮いた話は全くなかったし、彼女もそれを知っていたと思う。私はダサくてパッとしない高校生で、明るくてあか抜けている彼女とどう接していいかわからなかった。あか抜けている人コンプレックスだった。彼女たち2人の前に座っていると、本当に3歳児のように困り果てるのだった。彼女の彼氏の話を聞いているのは、何か特別な呪文を聞いているようだったし、このシチュエーションを他人に知られなくないと思った。彼氏の話をされただけで感動している自分を、人に見られたくなかった。でも本当に、何か感動してしまっていた。

彼女は多分このことを忘れているだろうし、卒業して何年も経っているのにこの瞬間を覚えている私の方がヘンな気がする。あの一時間死ぬほどドキドキして、それこそ人に告白されたときのドキドキはこんな感じだろうかとも思った。

最近Facebook経由で、そのときの彼女が結婚したことを知った。
当時私に話してくれた彼との結婚かどうかはわからないけれど、「ああ」と思った。ああ、彼女は23歳で結婚するだろうなと、すごく腑に落ちた。彼女が「地毛ですよ」と言い通していた茶色の髪を思い出したのと一緒に、あの2人だけの世界史の授業を思い出して、なんだか書きたくなってしまったっていう、それだけなのである。

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車を買わねばならなくなって

大学を卒業して地元へ帰ってきた。
地元で就職するつもりではなかったけれど、諸々が重なり、地元の職場で働くことになった。私は地元へは帰らないから免許は取らなくて大丈夫っしょ~お金もったいないし~と、大学在学中に運転免許を取っていなかった。地元では車がないと始まらない。仕事へ行くのにも、徒歩はもちろん自転車でもちょっと厳しい距離。電車やバスは通勤に使える時間帯のものはない。毎日家族に送り迎えしてもらうわけにもいかず、働き始めてすぐ自動車教習所に通うことになった。もちろん「自分の車を買う」ということが大前提で。

終業後すぐ教習所へ行き、夜まで授業や教習を受けるのはじわじわとつらかった。つらい私を笑いたい人はこちらを読むといいと思う。↓

自動車教習がつらいことを誰か聞いてくれ - こみねもすなるだいありー

7月末やっと免許を取得して、晴れてドライバーの仲間入りとなった。

免許が取れたらハイ次、という感じで、どの車に乗るのか早く決めなさいね、と両親にせかされた。免許を持っているだけで概念上の車を運転して仕事へ行けるわけではないから当たり前だ。母と父はそれぞれ一台ずつ車を所有しているけれど、それぞれ働いているため日中私に車を貸せない。1人1台車があるのが当たり前なのは、田舎あるあるのあるある中のあるある。

率直に言うと、私は車なんて欲しくなかった。先述したブログで力いっぱい書いたとおり、私は車の運転が好きではなかったし、そもそも車が欲しい! と思ったことは人生で一度もなかった。

嫌々ながらも、車探しを始めた。まずは中古車から見て回ることにして、週末はカーディーラーや中古車販売店を巡った。私は値段しか見ていなかった。これは30万、これは100万、これは……といった具合に、自分が好きなデザインかどうか、乗りやすさはどうかなどには、全くピントを合わせなかった。合わせたくなかった。そもそも車を買うことで、田舎に屈服(なんてダサイ表現なんだとは思うけれど、それ以外に適当な言葉が見当たらない)するのが本当に嫌だった。
私は5分おきに滑り込んでくる通勤電車で毎朝仕事へ行きたかった。ストレス指数が振り切れていようがそんなのはどうでもよかった。ここに帰ってきたくなかった気持ちが爆発して、車を選ぶために時間を使うのが本当に苦痛で仕方がなかった。

父がお世話になっているカーディーラーさんに会うことになり、その日もどんよりしながら店舗へ行った。どの車を見ても、欲しいと思えない。父が展示中の車を見たいというので、商談スペースに私とディーラーさんだけが残った。

「どんな車にしたいですか?乗りやすいのは軽自動車ですか?」ディーラーさんがカタログを指して色々と説明をしてくれるけれど、生返事と相槌しか返せない。出されたホットコーヒーを苦し紛れに飲みつつ、早くお父さん帰ってこないかなぁと思っていた。1人では場が持たない。

ディーラーさんが、ふと「あんまり車、欲しくないですか?」とつぶやいた。グサッと刺さり、思わず「はい」と言ってしまった。「車に興味がないですし、車にも乗りたくないです」と言ってしまうと、なんだかスッキリした気持ちにすらなった。

「車は車じゃないですよ。車はね、部屋だから」ディーラーさんが言った。

「車は移動手段ですけど、それだけじゃなくて、自分が好きに使える部屋でもあるんですよ。例えば1人になりたいとき、ご実家だと難しいでしょ?このあたりだと喫茶店も少ないし。そういうとき、車に乗ればいいんですよ。車に乗れば、1人になれますよ」

父が帰ってきて、その話はそこでおしまいになった。私はその話をもっともっと聞いていたかった。
実家へ帰ってきて、1人になりたい瞬間はたくさんあった。そのたびどうしようもなく居場所がなくて、家族のことは好きなのに怒りを冷ませず悲しかった。せめて1人で音楽を聞いたり、人目を気にせず泣いたりできる場所が欲しかった。それが車なんて思いもしなかった。全然興味のなかった車を、初めて「欲しい」と思った。

絶対にこの人から車を買おうと決めた。


それからは、比較的自分の意志を持って車選びができたんじゃないかと思う。とにかく「車の中にいて心地いいかどうか」と「自分の身の丈にあった車か」というポイントを大事にした。一括で自動車を買えるほどの貯蓄がなかったので、月々支払いをしていくことになる。なければ生活できないものだから、ずっと手放さずにすむ方法を相談した。

悩んだ結果、白い軽自動車を新車で購入した。人生で一番高い買い物に、ハンコを捺すとき、手汗がものすごかった。


↑納車してすぐお祓いに行きました。


まだ乗り始めたばかりだけれど、ディーラーさんが言っていた「車は部屋」というのが、めちゃくちゃ理解できた。とにかく、1人になれる瞬間は車に乗っているときくらいしかないので、静かさが本当に心地いい。車の運転をする緊張感はまだあるけど、エンジンを止めて車の中で座っていると落ち着く。たまに車を駐車場に停めて、しばらく考え事をするようにもなった。

あと当たり前だけれど、好きなときに映画を観に行ったり、図書館へ行けるのがとても嬉しい。ガソリンが入っていて自分の都合さえつけば、好きな時に好きなところへ行ける。

こんなに悩んだ買い物は初めてだった。できれば身軽でいたい。車がなくて生活できるなら、それが一番よかった。今でも車そのものに興味はないし、これから先強い興味を持つこともないだろうと思う。高級車を見て「お高いんでしょう?」と思うことはあっても、乗りたいとは思わないし欲しいとも思わない。

でも、車がなかったら、エンジンを停めたあと、あのシーンとし過ぎて耳鳴りがしそうな静かさは味わえなかっただろうなと思うし、夜運転席で体育座りして宇宙に漂っている空想をすることもなかっただろうなと思う。あってよかったな、と思う自分がなんか悔しい。

週末は、1人でどこかへ行きたい。



それどこ大賞「買い物」
それどこ大賞「買い物」バナー

短歌を好きになって詠み続けているのは瞬間を救ってくれるから

短歌に初めて会ったときの話をここでしていた。

ask.fm

高校二年生の修学旅行は、贅沢にもディズニーランドのオフィシャルホテルに泊まった。オフィシャルホテルじゃなかったかもしれないけど、ランドに近くてとてもきれいなホテルだった。私は高校のクラスに仲の良い子がいなくて、ちょっと派手めな女の子2人組にいつもくっつかせてもらってた。確かディズニーランドかシーか、どちらか好きな方に行っていいよと言われてたんだったと思う。私と女の子2人はディズニーランドへ行ったのだけど、2人はそれぞれ彼氏がディズニーシーへ行っていて、お土産にダッフィーのぬいぐるみを買ってもらってた。それを抱えながら2人がベッドの上で彼氏に電話を始めた(確かホテルの棟が違った)ので、私はいたたまれなくなってホテルの売店へ行き、若い世代の何人かを短歌に叩き込むことに貢献した『ショートソング』という本を買って、その晩1人で読みふけった。読みふけったあと、持ってきていた手帳に短歌を詠んで書きつけた。自分がいいと思った言葉を一生懸命選んで短歌を詠んだ。そのあとの修学旅行の移動中は、ずっとバスと飛行機の中で短歌を詠んでいた。

ショートソング (集英社文庫)

すごくよく覚えている。ホテルはすごくきれいでなんか王宮みたいだったのに、売店だけは古ぼけた街の文具屋さんみたいな雰囲気で、意味わからないお土産(サンゴの指輪みたいな)がたくさん並んでいて、そこに短歌があった。誰もいないロビーで、文庫本の入ったナイロン袋のカサカサいう音がすごい響いた。
私はあの売店が幻だったんじゃないかと今でも思う。

幻の売店で短歌を買って、私は寂しい修学旅行を救ってもらった。

「あっ今寂しいな」と思った瞬間や、「今のすごいよかったな」と思った瞬間を、短歌は救ってくれる気がする。リズムを付けて浮上してくる言葉はいつも一瞬のきらめきで、私はそれを金魚をすくう小さなアミですくいとる。長く語ると薄まりそうなバチッとした一瞬も、小さいハコに収めるとちゃんとした標本になる。一首一首が、瞬間を抽出したお土産になる。
夜中唐突に寂しい瞬間、スマホの画面を開いて、こちょこちょと寂しい気持ちを詠む。怒りが一瞬沸点に達したとき、その気持ちを詠む。外を歩いていて「今のだよ」と思ったとき、手帳を開いて詠む。一瞬の入ったハコがどんどん手に入る。この気持ちをどうしたらいいかわからない、と思ったとき、短歌はそれを救ってくれる。

瞬間を何度も何度も短歌に救ってもらって、やっと高校二年生の冬から6年が経つ。短歌がなかったら、もっと6年は長かっただろうなぁと思う。寂しいときの短歌も、怖いときの短歌も、きれいだと思ったときの短歌も、全部高校二年生の修学旅行の夜に繋がっている。多分この「瞬間を救ってくれる」ものが、他の人にとってはスポーツだったり、ゲームだったり、彼氏だったり、漫画だったりするんだろう。私は短歌だった。それに出会えてよかった。

「面白い」の呪い

「面白い」と思われたい病気なのかもしれないなと思う。何でも病気病気と言ってしまうのは失礼だと思うので「面白いの呪い」とでも言ったほうがいい。ずっと前に「面白いの呪い」にかかって、ずっとそれに気づかなかった。

「面白い」は、ギャグセンスがいいとか、みんなを笑わせるとか、そういうことじゃなくて「誰かの目にとまる」「誰かの心にとまる」「誰かの薬になる」「へぇ、と思われる」とかそういう類の何かだ。私の中ではそうだった。一目置かれたい、というと、なんかまた違う気がする。とにかく、特別な何かだ。「他とは違う」何か。

「面白い人」になりたいわけではなくて、「面白い」を生み出せる環境や知識が欲しい、そのための器官が欲しいと言ったほうが近い気がする。

「面白い」ことを言おうと思って、なぜか一時間も二時間も考えることが度々あった。別に誰に求められたわけでもないし、誰かに「面白い」と思われたところで何の得もない。「面白い」と「その人に興味を持つ」「その人を好ましく思う」とはまた別のことだと思う。随分と疲れた気がする。疲れたのに未だに自分が面白いことを言えないことに焦りとかいらだちを感じる。「面白いことを生み出す器官を持たない私」「面白いを生み出せない私」に価値がなく感じる。面白さに一体どれだけの価値があるのか、考えたけれどわからない。でも「面白くない」ことは悪なのだ、と思ってしまう。辛くばかばかしい。今まで私が生み出したものに「面白い」ものがいくつあったのか。私には判断できない。ボールは受け取る相手が、どんなボールだったかを判断するものでしかない。私が思い切り投げたボールが、他の人にとってふにゃふにゃのボールだったなら、それまででしかない。私がやわらかく投げたボールが、他の人にとって剛速球でとても捕れなかったら、それまででしかない。

何が言いたいのかよくわからない。「面白い」と一緒に死にたくない。

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